義理チョコ、友チョコ。本命以外にもチョコを送る習慣が定着して、
お礼チョコ化しているバレンタインデーです。
このところ、手軽に贈れてホットチョコが楽しめる「スプーンチョコ」が、
話題になっているそうで、商戦では押しの商品だったそうです。
バレンタインデー前から、有名人のおめでたいニュースが飛び交っていました。
もろ手を挙げて祝福する話題もあれば、お騒がせなマリッジニュースには、
「ウ~ン」と首をかしげてしまいます。
結婚は、おめでたい門出でありますが、舵取りが難しい船出でもあります。
二人三脚、二人が力を合わせてひとつの目的に向かって進むことが大切ですが、
お互いの我が出てしまい、一歩も前に進めない可能性もあります。
派手に打ち上げて、パッと消えることがないようにしたいものです。
お菓子王と呼ばれた、森永製菓、創業者森永太一郎氏は、
日本に洋菓子の大衆化に力を注いだばかりでなく。
創業について、私たちに多くのことを、伝えてくれています。
23歳のときに志を持って一人渡米しますが、
その思いはかなえられることがなく苦しい日々が続きます。
二度目の渡米中に、日本での洋菓子の製造を決意しそれを天職と決めます
皿洗いの下働きからはじめ、12年をかけてやっと製法を学びとるのです。
森永氏は米国での失敗を繰り返さないよう、無から生み出す創業には、
これでなくてはいけないと考え直し、
「倹約して作った貯金の3分の1を最初の資本として、
得意先がついて見込みが出てきたときには3分の1を運転資金として、
残りの3分の1は予備貯金として、非常時のときに使う。」
いわゆる資本三分主義を実践するようになります。
この考えをもとに始めたのが、わずか2坪のマシュマロ工場でした。
日本での洋菓子販売は苦難続きで、最初は「口に合わない」と菓子店から返され、
夏場には、製品がいたみ、返品の毎日でありました。
返品された製品を、夜にひっそり、
溜池に捨てに行ったという秘話まで残っています。
営業や技能の才覚と、経営の手腕の両方を持ち合わせていることは、
稀であります。
森永氏にとってもそれは、他人事ではなく、販売や経営の能力を
持つ人材を必要としていました。
事業の拡大と共に、右腕となる人物を探し求めるようになります。
やっと、輸入品の販売業を営んでいた松崎氏を支配人として
入店にこぎつけることができました。
その時、松崎氏が入店の条件として提示したのが次の3つでありました。
一、販売業務は松崎氏に任せること、
一、個人事業から株式会社へ改めること、
一、なるべく人物本位で広く採用すること
こうして松崎氏との二人三脚が功を奏し、
森永製菓は 今のような発展を果たすことになるのです。
経営の実権を委譲してまで、洋菓子つくりの天職をまっとうする。
事業とは、私利ではなく、たくさんの人の英知を結集してこそ成功できるのでしょう。