このところ、大手電機メーカーの人員削減のニュースが相次いでいます。
加えて、驚きなのは、5千人や1万人という規模であることです。
つい最近では、外資と提携する話がもちきりな、
シャープが5千人規模の人員削減を打ち出したことです。
一時、シャープは液晶を武器に業績を伸ばしていました。
その優位も円高という波に呑まれ、今や韓国勢に押され青色吐息の状態です。
当然、人員削減の対象には、技術系や開発系の社員も含まれているはずで、
退職した後の再就職先はどうされているのかと気になっていたところ。
まだまだ少数ではあるようですが、
流通業に再就職して、その手腕を発揮されているそうです。
プライベートブランドの開発や不良品のチェックや改良など、
それまで発注先の言いなりであったことを、
自らが指示できる体制に切替えられたということです。
これから、製造業が日本で生き残っていくには厳しくなるばかりです。
先人たちが、幾多の苦難を乗り越え、育て伝えてきたノウハウを、
是非とも様々な業種で生かしてもらいたいものです。
シャープの創業者である早川徳次氏は、シャープペンシルの発明から、
国産ラジオの開発、日本最初のテレビの発売、
そして電子レンジ、電卓など、次々と商品化を果たしていきました。
しかし、商品開発力だけで企業が生き残っていくことは、
生易しいことではありません。
シャープがいくつのもの商品化を果たしていけたのは、
他より先に先端技術に取り組んでいったことにあります。
ラジオが全盛のときに、テレビの開発にいち早く着手。
そのテレビの最盛期にコンピュータの開発と、
先々を見据えた方針の決断を行ってきました。
また、技術開発力だけでなく、その技術を、
どこよりも早く商品化する力を持っていたからといえます。
量産化へのノウハウを持ち、シャープペンシルの生産当時(大正初期)から
コンベアー方式を取り入れ、それがラジオの生産に受け継がれて
量産体制を作っていきました。
それは、1923年、シャープペンシルの事業が順調に乗っていた最中でした。
突然、襲った大地震、関東大震災でありました。
その震災で、3つあった工場がすべて消失してしまい、
妻子と子供までも亡くしてしまいます。
抱えていた借金返済を強いられ、シャープペンシルの特許権などを売却して、
無一文になってしまいます。
そんなゼロからの再起の発端となったのが、
アメリカから輸入された鉱石ラジオでした。
そのラジオに賭ける決心をしたときの、胸中を早川氏は次のように語っています。
「常に他より一歩先に新境地を拓かねれば、到底事業成功は望まれない。」