先月の事ですが、フィルム型ディスプレーの事業化を目指していた、
ベンチャー企業の篠田プラズマが事業を停止しました。
軽くて曲げることが可能な特徴を売り物としていましたが、
安価な外国製のディスプレーとの価格差には太刀打ちできず、
日本が得意とする高品質(付加価値)は、あえなく敗北となりました。
10年程前までは、高品質な液晶ディスプレーといえば、
シャープがその地位を、ほしいままにしていました。
早くから電子手帳の開発に力を注ぎ、
小型の液晶ディスプレーの開発により高い技術力を誇り、
国内では、いち早くスマートフォン型携帯電話を発表したのも、
シャープだったと記憶しています。
ところが、高品質を目指して開発を進めていたことがあだとなり、
液晶ディスプレー事業自体が重荷となってしまったそうです。
今や、競争相手である海外企業に、
助けを求めないといけない状況にまで陥ってしまいました。
シャープという名前の由来は、
シャープペンシルであることをご存知の方も多いはずです。
その発明者、早川徳次氏はシャープの創業者であり、
シャープペンシルの発明から、国産ラジオの開発、日本最初のテレビの発売、
そして電子レンジ、電卓など、次々と商品化を果たしてきました。
1923年、シャープペンシルの事業が順調に乗っていた最中でした。
突然、襲った大地震、それは関東大震災でありました。
その震災で、3つあった工場がすべて消失してしまい、
妻子と子供までも亡くすこととなってしまいます。
しかも借金返済のため、シャープペンシルの特許権などを、
売却しないといけなくなり、無一文になってしまうのです。
開発力だけで企業が生き残っていくことは、容易いことではありません。
シャープがいくつのもの商品化を続けていけたのは、
他より先に先端技術に取り組んでいったことにあります。
ラジオが全盛のときに、テレビの開発にいち早く着手し、
そのテレビの最盛期にコンピュータの開発と、
先々を見据えた方針の決断を行ってきました。
また、技術開発力だけでなく、その技術を、どこよりも
早く商品化する力を持っていたからといえます。
量産化へのノウハウを持ち、シャープペンシルの生産当時(大正初期)から
コンベアー方式を取り入れ、それがラジオの生産に受け継がれて
量産体制を作っていきました。
ゼロからの再起の発端となったのが、
アメリカから輸入された鉱石ラジオでした。
ラジオ開発に賭ける決心をしたときの胸中を早川氏は、
「常に他より一歩先に新境地を拓かねれば、
到底事業成功は望まれない」と残しています。
その時と同じ様に、もう一度優れた製品を生み出して、
輝きを取り戻してくれることを期待したいものです。