「タカラヅカ」「タカラジェンヌ」と称され、
これまで数々の女優やスターを生み出してきた、
宝塚歌劇がこの4月で、初公演から100年を迎えました。
このことを祝い、内閣総理大臣表彰が授与されるなど、
記念イベントが開かれた劇場は大盛り上がりだったそうです。
ずっと、歌劇は温泉地を訪れる観光客の集客を狙った、
日本初の屋内プールの経営不振の打開策として誕生したと伝えられていました。
最近の研究では、冬場のプールの活用策として、東京から女優劇団を招いたり、
浄瑠璃大会を開いていて、その一環で生まれたのが歌劇だったそうです。
宝塚歌劇の生みの親、小林一三氏は少年時代から文学や演劇に熱中し、
大学時代には一年、一日も休みなく劇場見物するほどでした。
また、新聞に小説を連載するほどで、将来は新聞社と考えていましたが、
畑違いの三井銀行に就職することになります。
案の定、銀行に勤めてからも、遊び好きは止むことはなく、
昼は銀行マン、夜は花柳界を渡り歩くことになりました。
当然の成り行きとして銀行を辞めることになりますが、
当てにしていた会社に勤めることも出来ずにいたところ、
ある鉄道会社の創設を任せられることになるのでした。
その名は箕面有馬電気軌道、大阪と紅葉名所や温泉地を結び、
当時では観光向けの遊覧電車と見られていました。
ところが、この鉄道は小林氏の斬新なアイデアにより、
後の阪急電鉄と変身することとなります。
小林氏は、乗客を運ぶ手段でしかなかった鉄道を、生活文化を届けるものとして、
それまでにはない発想で鉄道経営に乗り出したのです。
最初に考えたのは、乗客の確保のため沿線の住宅地の開発でした。
自らが手を付けている鉄道の信用の低さを逆手にとって、
沿線の土地を安く買い上げ、
家を建てて2.5倍から3倍の価格を付けて販売したのです。
住宅開発と並行して、終着駅にレジャー施設を作ることを計画します。
温泉地であった宝塚に、大浴場をつくり、
豊中には運動場を建設しました。
その後、大浴場の中には宝塚歌劇が作られ、
運動場には甲子園大会の本となる野球大会が開催されることになります。
大阪に人が急激に集まるようになると、
毎日10万人もの乗降客がある梅田駅に百貨店を作ることを思いつきます。
他の百貨店が、送迎自動車や無料配達を行い客寄せのために苦心している様を見て、
駅ターミナルに百貨店を作れば、自然と客が来てくれると見込んだのです。
終着駅にはリゾート地、沿線に快適な住宅地、始発駅には百貨店。
このようにして、小林氏は鉄道経営と生活を見事に結びつけて、
鉄道経営の見本となるものを作り上げたのです。