食品メーカーが独自ブランドで販売する商品(NB)に対して、
スーパーやコンビニが自主ブランドで販売する商品を、
プライベート・ブランド(PB)といいます。
メーカーと提携や共同開発を行うことによって、
数十パーセントお得な金額で販売されています。
景気が悪くなると、メーカーとしては注文が減るので、
生産にゆとり…いえ、穴が開くことになります。
そこにスーパーのPBの注文を充てることができれば、
少々安くても、工場を止めるよりマシということになるのです。
小売業が力をつけると共に、PBの販売額も年々増え続け、
もうすぐ2兆円を超える規模まで拡大しているそうです。
このような状況を踏まえて、
メーカーも単に下請けとして生産を引き受けるだけでなく、
戦略的な行動を採るようになってきているそうです。
醤油業界第2位のヤマサ醤油では、PB商品の拡大を好機と捉えて、
受注枠を増やし市場シェアの拡大を狙います。
NBだけでは太刀打ちできない業界トップの壁を、
PBの力を借りて突破しようと目論んでいます。
僧侶が中国から味噌の製法を持ち帰ったのは鎌倉時代のこと。
現在の和歌山県湯浅町の寺で味噌が作られ、
その副産物として生まれたのが「湯浅醤油」といわれています。
故郷の醤油の製法を携え、初代濱口儀兵衛が紀州から銚子に渡り、
ヤマサ醤油を興したのは1645年のことです。
儀兵衛が生まれた広村は、湯浅の隣に位置する貧しい村でした。
跡継ぎではない男子は故郷を出て、気候が似ている銚子に移り住む者も多く、
漁業が栄えた銚子では、醤油製造の地としても発達していきます。
脈々と続く家系では、七代目にあたる濱口梧陵に逸話が残されています。
たまたま、広村に戻っていた時に南海の大地震に遭遇することになるのです。
海面の状態や井戸の水位の異変を感じ、津波が来る事を察知した梧陵は、
田んぼの稲束に火をつけ危険を知らせ、村民を救ったと伝えられています。
その後も、津波のたびに大きな被害を受ける故郷を守るため、
莫大な資財を投じ、大量の人手を動員して、4年もかけ防波堤を築いたのです。
今や、松とハゼの木が植えられた全長600メートル以上にも及ぶ、
その姿は史跡となっています。
伝統を受け継いでいく途中には、逆風が吹くこともあります、
永い時間の中では、決して避けては通ることが出来ないことなのです。
平成になってからでも、放漫経営や不祥事、過大投資などの理由により、
経営破たんした大企業は、どのくらいあったでしょう。
その都度、法律が改められ防止策を講じられはしますが、
同様のケースが後を絶ちません。
調査会社が、長寿会社にその秘訣を尋ねたところ、
「本業を重視する」「身の丈にあった経営を心がける」
「時代に柔軟に対応する」といった答えが返ってきたとか。