2020年に東京オリンピック開催が決定したと思ったら、
気の早い人たちは何処にもいるもので、やいのやいのとハッパをかけてきます。
オリンピックに直接関連するものならやむを得ないと思いますが、
「そこまで?」と首をかしげることもあります。
その見本になるような事は、リニアモーターカーの前倒し開通の話です。
予定では27年開通となっていますので、7年も前倒しすることになります。
JRの社長は、「ダメ」と、きっぱり断っていますが、
かつて、同じ様な話があっただけに、このまますんなりいくとは思えません。
JRが、前身の日本国有鉄道時代、飛行機の路線が相次ぎ開通し、
高速道路の整備が行われ、長距離移動の交通手段が広がっていく最中、
新幹線は生き残りを掛けて取り組んだ事業でした。
加えて、戦後復興を目指した「近代化」日本を象徴する意味を持っていました。
驚くことに、前代未聞の200キロを超える高速鉄道の計画は、
わずか5年で、東京-下関間を前面開通させるという無謀な計画でもあったのです。
理由は、昭和39年に開催が決定していた、
東京オリンピックに間に合わせる必要があったからに他なりません。
高速化に際しての課題は173にも上りました。
そのひとつ、高速になるにつれて発生する車体の横揺れの解消については、
戦闘機の技術が生かされています。
戦争中、航空機に関して日本は世界のトップクラスの技術を誇っていました。
技術の粋を集めたゼロ戦でしたが、ある速度を超えると機体が小刻みに揺れははじめ、
次第に振幅が大きくなり、そのまま飛び続けると、
分解してしまうというトラブルを抱えていたのでした。
戦後、新幹線の横揺れ対策に取り組んだのは、
戦闘機開発から転身した技術者たちでした。
技術者の心の中には、忘れることのできない暗い記憶がありました。
安全に飛行機を飛ばすために、高めていくはずの技術は、
いつしか高性能な戦闘兵器を作る技術と変わり、
ついには、若い命を奪うこととなる、特攻機を作り出すことに繋がります。
しかし、新幹線の完成によって、その技術が日本の発展に貢献することになり、
彼らの心の傷は癒されたのです。
食中毒事故や食品偽装が相次いで報道されていますが、
安全を維持するということは地道な努力が必要です。
いくつもの課題を対処する必要がある経営者の中には、
事故が起きてしまった事を、運が悪かったと片付けてしまう人物もいます。
あたり前のことですが、経営という制約の中で、
起こさない為の万全の予防があってこそ、結果的に事故が無くなるのです。