かつて少年少女が集い遊んでいた、喫茶店やゲームセンター、
カラオケボックスは、シニア世代が時間を過ごす場所に変っています。
映画館も同様に、大スクリーンで観る迫力感に魅力を感じているのは、
シニア層が中心で、特に10代の映画離れが目立ってきているようです。
加えて、ハリウッド映画など洋画の勢いも失速気味で、
興業実績も、洋画の減収を邦画が補う形となっています。
中でも、スタジオジブリの宮崎作品を代表とする日本アニメは、
世代を超えた支持を得ることになっています。
日本のテレビ草創期、国産初のテレビアニメを登場させたのは手塚治虫氏でした。
わが国のアニメ発展のために、理想を追いかけ突き進んだ天才でしたが、
その道は決して楽なものではなかったのです。
1963年テレビに登場したアニメ「鉄腕アトム」。
みんなの期待とは反対に、ブラウン管に映し出される映像は、
ほとんど動いていませんでした。
パンチは腕から先しか動かない、車は右から左に動くだけ
アップの顔のまま数秒間の静止、
「この程度か…」同業社の間では、こう囁かれていました。
これからのアニメのためと、赤字を覚悟で製作を引き受けたものの、
1本作れば100万円の赤字でありました。
ディズニー映画であれば2万枚近くの絵が必要なところ、
その10分の1の枚数で作りました。
それでも、アニメーターは通常の5倍以上の絵を描く必要があったのです。
ストーリーには、動画が劣る分を埋めても余りあるほど、
いままでのアニメにはない魅力があふれていました。
視聴率は回を重ねるごとに上がり、子供はもとより大人まで、
その壮大なテーマに感動したのです。
「鉄腕アトム」は最高で40%を超える人気となりました。
しかし、手塚氏のアニメの制作会社「虫プロ」の経営状態は、
安定に向かうことはありませんでした。
テレビ局からの制作費は、経費を大幅に下回って絶えず赤字状態でした。
赤字を手塚氏本人の原稿収入で補っていたものの、
あえなく、「虫プロ」は73年倒産することになるのです。
手塚氏が、収入を補うために考えたもう一つの方法は、
アニメ放映による関連商品の販売や海外へ輸出することでした。
著作権はテレビ局に売り渡さず、「版権」として自社が管理して、
積極的に利用したのです。
「鉄腕アトム」、「ジャングル大帝」を輸出する際も、
期限を区切った配給契約を結び、放映時に必ず虫プロダクションの名を
表示することと、フィルムの編集には虫プロダクション側の合意を
必要とする契約を行いました。
苦肉の策として考え出された、「版権」ビジネスは、
テレビアニメのビジネスの見本となり、
日本アニメが海外へ進出するきっかけとなったのです。