ビジネスの世界には、人が羨むような成功談がたくさんあります。
そのひとつに、国内の自動車販売のシェアを、
50%以上獲得した夢のような話があります。
なんと、その偉業を成し得たのは自動車メーカーのスズキなのです。
でも、シェアのお話は日本じゃなくてインドでのこと。
スズキが進出する以前のインドには、様々な問題がありました。
インド固有の階級制度により、服装、部屋、食堂などを、
身分ごとに区別するのが当たり前でした。
労働組合の結成率が高く、そのリーダーの多くは、
働く時間が短くて、報酬が高いことを要求するだけでした。
労働者の方も、欠勤することは当たり前で、
勤務時間をみっちり働くことはしなかったのです。
なので、賃金が低い割にはインドでの生産効率は、そんなに高くなかったのです。
加えて、事業の許可制度や税金も企業が成長するには足かせでした。
スズキの社長 鈴木修氏がインドの政府系の企業から、
合弁の話が持ち上がった時に思ったこと…
「日本で一番になれないなら、インドで一番になればいい」
というのも、日本の自動車メーカーの中ではスズキはいつも10位以下、
一社ずつでも抜ければいい程度だったのです。
いざ事業に乗り出した後も、解決しないといけない課題は山積状態、
一つひとつ潰していくしかありませんでした。
役員、管理職、一般社員の意識改革にはじまり、
政府が取り仕切る規制緩和をしてもらうことの要求、
部品を供給する下請けメーカーに対しても教育することになりました。
その長年の成果が実り、
インドでの事業にも日本と同じような生産体制が出来上がりました。
このように、偉業と持て囃される話の影には、
コツコツとした努力の積み重ねがあることがほとんどです。
「GM(ゼネラル・モーターズ)が鯨で、うちがメダカ?
いやうちはメダカじゃなくて蚊ですよ。
だってメダカは鯨にのみ込まれてしまうが、
蚊であれば空高く舞い上がることができるのでのみ込まれない。」
GMと業務提携した時の鈴木氏の発言です。
こんな時期だから、この言葉に重みが感じられるのではないでしょうか。
進出し、最初に市場に投入した車種「マルチ800」は、
発売30年を超え、庶民の足として根強い人気となりました。
当時の首相の国民車構想に基づき、日本の2代目アルトをベースに開発され、
長い歴史を誇っていましたが、排ガス規制の強化により、
このほど生産を終える事となりました。
その功績を、地元紙は品質管理や生産システムなどに広く影響を与えたと、
このように称えたそうです。
「消費者だけでなく、品質の向上への取り組み、
生産の効率化などインド経済や企業に与えた影響は計り知れない」