喫煙に対する規制が強くなったこともあり、
タバコの自動販売機(自販機)はかなりの数が姿を消しました。
郊外に行けば、自家野菜や玉子を売る自販機を目にすることもありますが、
街中で見かけるのは、飲料水や缶コーヒーの自販機ばかりになりました。
コンビニやフードコートが広がるまでは、
街角や人が集まる場所で一風変った自販機を目にしたものです。
そんな、レトロな自販機を集めた「自販機食堂」が群馬県にあり、
ちょっとした観光スポットとなっているようです。
メニューは、ハンバーガー、トースト、うどんやラーメン。
値段は安いとはいえないけれど、麺類28秒、トースト40秒、
ハンバーガーは68秒と、ファストフード顔負けの速さが売り物です。
道路を挟んだ向かいにコンビニがあるものの、
物珍しさに惹かれて訪れる人、当時を懐かしんで来店する客が後を絶たず、
平日で100食、休日は200食を超える売上があるそうです。
現在のように、街角のいたるところに自動販売機が設置でき、
販売を支えているのが、硬貨、紙幣の認識技術です。
この技術に早くから取り組んだのが、立石電機(現 オムロン)です、
最初に開発を手がけたのは食券自動販売機でした。
私鉄の路線延長に備えて、百貨店が新駅に通じる地階に、
新しく食堂コーナーを作る計画をしたのです。
その食堂に、食券の自動販売機を導入する構想が持ちあがります。
3種類の硬貨を利用し、偽造を見分け、7種類の食券を販売するという、
開発陣も尻込みするほど、とても高い性能を要求されましたが、
見事に完成させ63年に7台の納入を果たします。
自動制御装置にコンピュータを組み合わせた技術は、
次々と新しい製品に開花していきます。
アメリカのメーカーの依頼で、食券の自動販売機の技術を応用した、
クレジットカード用の自販機システムを手がけることになります。
現地では、食事をする前に前払いする習慣が無かったため、
いわゆる後払い形式のクレジットカード方式に切り替えての開発でした。
製品発表は大々的にマスコミに取り上げられ、
新聞やテレビで報道されましたが、一方販売は伸びませんでした。
しかし、その技術は無駄にされることなく、
銀行の窓口無人化システムにつながります。
66年に金融会社から入った、紙幣自動貸出機の開発依頼を皮切りに、
銀行向けのCD(自動預金支払機)を手がけ、
ATM(自動現金引き出し、預け入れ装置)に引き継がれたのです。
30年、オムロンの創業者 立石一真氏が独立開業を決意したのは、
折からの不況で、勤めていた会社の希望退職に応じたものの
就職口がみつからず、再就職できなかったからです。
最初は、自らが考案した、ズボン挟み器(ズボンプレッサー)や
ナイフグラインダー(包丁研ぎ器)を売り歩き、
細々と生計を立てていましたが、持っていたお金も底を尽き、
その日の米代まで不自由するようになります。
途方にくれ、周囲に仕事がないかと訪ね歩いていたところ、
友人がレントゲン撮影用のタイマーの話を持ってきてくれます。
鮮明な映像を撮るために、20分の1秒を計る必要があったのですが、
それまではゼンマイ仕掛けで、正確に測定できなかったのです。
立石氏は、2ヶ月掛かりで2台の試作品を完成させメーカーに持ち込みます。
大阪の病院で行われた、タイマーの立会い試験では、
合格の結果を受け、はじめて大口の注文を受けることが出来たのです。
こうして、「継電器(リレイ)」の専門工場として
立石電機の基礎が出来上がったのです。